#3
生の終わり。時の流れる限り、その摂理は変えられない。 気の遠くなるほどの年月が過ぎた。
ファウストは寝台に伏して、荒い息を吐いている。 僕は脇の小卓へひらりと跳び乗り、その姿を見下ろした。
老いたこいつを見るのは何度目だろう。だが、僕の力で死を遠ざけるのも限界だ。 「……随分長い旅だったね」
少しの沈黙のあと、ファウストが軽口で応えた。 「悪くは、なかったな」
"ファウストの魂を快楽で満たす"。 契約の行方は、棚上げのままだ。 だが、僕には最後の勝算があった。
今際の際にあって、自身の生を省みない者はいない。 その瞬間に、魂に尋ねてやればいい。
走馬灯のように日々を振り返ったとき——こいつの魂は、満たされたと認めるはずだ。 そうなれば、僕の勝ち。
……らしくない。 こいつとの契約が終わる。それだけのことに、胸が重かった。
振り払うように、僕は決まりの――呪文を呟いた。 "Erfülle den Vertrag. Eure Seelen gehören mir."
(契約を果たそう。お前の魂は永遠に僕のものだ) 「そろそろ迎えだ。ファウスト、お前の答えを訊こうか」
――返ってきたのは、安らかな満足の言葉ではなかった。 初めて見る顔だった。眉が寄り、唇が震えている。
「逃げろ、メフィスト」 「あァそうさ、迎えに来たとも!その魂は我のものだ!」
すぐ背後から声がした。頭蓋が痺れ、体が強張る。
振り向いた瞬間、息を呑む。燃え盛る黒い影が、すぐ背後に揺らめいていた。 悪魔……!?
「我が名はベラム。この身はその擬体が一つ……」 道化じみた、神経を逆撫でる声だった。
影の肩口で、"BS"の刻印が気味悪く脈打っている。 「この人間は遥か昔、全知を求め、我と契った!」
……思わずファウストを見た。眼鏡の奥の目が、伏せられる。
「知は耽美な闘争の大いなる糧……知は、血と宿命的に不可分である!
この人間の崇高なる魂は、我が理想と深く共鳴したのだ。さあ、共に征こう!」
絞り出したファウストの声は、掠れていた。 「代償が魂だとは……聞かされていなかった」 この馬鹿……!
悪魔が契約の代償について明言するとは限らない。
だが、人間が一度首を縦に振れば悪魔の契約は成立してしまうのだ。
"魂は、先に契った悪魔のもの”。僕にできることはない。 せっせと退散すべきなのは明白だった。
——なのに、体が引かない。 こいつの魂が、知らない奴に好き勝手にされるのは、耐えられなかった。
「——ベラムだっけ。悪いけど、お引き取り願おうか。こいつは僕と契約したんだ」